最近、私は「○○ハラ」という言葉に、少し疲れているのかもしれません。
もちろん、セクハラやパワハラ、マタハラのような言葉に異論はありません。本来それらは、人の尊厳を守るために生まれた概念です。社会の中で弱い立場に置かれた人や、理不尽な扱いを受けた人を守るための言葉だったはずです。
ところが最近は、どうも様子が違う気がします。
スメハラ。
ヌーハラ。
そしてスネハラ。
東京都が夏の服装として男性の半ズボンを容認する、という話題を見たとき、「おじさんのすね毛なんて見たくない。スネハラだ」という文章をどこかで見かけました。
正直に言うと、それを見て私は少し不快感を抱きました。
そして同時に、「あれ、これって、おじさんに対するハラスメントじゃないか」と思ったのです。今回この文章を書こうと思ったのは、まさにこの瞬間でした。
いや、別に半ズボンを履いて街へ繰り出そうという話ではありません。おじさんのすね毛を積極的に鑑賞したいわけでもありません。ただ、「スネハラ」という言葉に、どうも引っかかったのです。
本来、「不快感」と「ハラスメント」は同義ではないと思います。法的な意味でのハラスメントは、人格や尊厳への侵害、差別、あるいは優越的な立場の濫用などを問題にしているはずです。ところが最近は、「私は不快だ」という感情そのものを、「ハラスメントだ」と呼ぶ風潮があるように見えます。
考えてみれば、日本語は外来語を妙な形で取り込む言語なのかもしれません。昔は吉永小百合さんの熱烈なファンを「サユリスト」と呼びました。英語の作法に近いのは、本来こちらです。ところがいつの間にか、アムラーやマヨラーが現れました。アムリストでもなく、マヨリストでもなく、アムラー、マヨラーです。正確さより語感が勝ったのでしょう。
別にそれが悪いと言うつもりはありません。ただ、「ハラスメント」も、少し似たようなことになっている気がしています。人格や尊厳の侵害を意味する、本来は重い言葉だったはずが、いつの間にか便利な接尾辞になってしまいました。
不快なら○○ハラ。
気に入らなければ○○ハラ。
見たくなければ○○ハラ。
そんな具合です。
その結果、私は最近、「おじさんに対するハラスメント」がちょっと横行している気がしています。おじさんはいまの世の中、社会の底辺のような扱いをされていて、何をしても不快だと言われている気がしてなりません。
そばをすすればヌーハラ。
ちょっと加齢臭がすればスメハラ。
電車で触れただけでセクハラ。
半ズボンを履けばスネハラ。
LINEを送ればおじさん構文。
そのうち、おじさんというだけでおじハラ、生きているだけでハラスメントと言われそうな勢いです(笑)。
もちろん、おじさんに言い分ばかりがあるわけではありません。若い頃の感覚のまま距離を詰めたり、頼まれてもいない説教を始めたり、自分の成功体験を延々と語ったりすれば、それは「老害」と呼ばれても仕方がないと思います。おじさんはおじさんで気をつけなければなりませんし、私自身も気をつけたいと思っています。
だが、それとこれとは、話が別なのではないでしょうか。誰かの行為を批判するのと、誰かの属性を不快物として扱うのとでは、かなり違います。「おじさんだから不快だ」という空気には、どうにも居心地の悪さを感じてしまいます。
ハラスメントという言葉は、人の尊厳を守るために広まりました。ところが今、その言葉がおじさんの尊厳を貶めるために使われている場面もあるように思えます。それはなかなか皮肉な話ではないでしょうか。
誰かの尊厳を守るための言葉が、別の誰かの尊厳を傷つけるために使われる。
もしそうだとすれば、私たちは少し立ち止まって考えた方がいいのかもしれません。
ハラスメントとは、本来誰のための言葉だったのか。そして、おじさんにも尊厳くらいはあっていいのではないか、と。






