楽観ロックで行こう

エンジニアのキャリアと組織のリアルを、時々読書と音楽を交えてつぶやいています

【読了】湊かなえ 「告白」|肥大化する自意識と、独りよがりな承認欲求

湊かなえさんの『告白』を読了しました。

登場人物それぞれの視点(告白・手紙・手記など)で語られていく構造で、まずは彼らの内側から溢れ出てくる過剰な言葉の量と熱量に圧倒されます。イヤミス(後味の悪いミステリー)の名作として知られる本作ですが、物語の面白さにとどまらず、対人支援や心理の視点、そして人間関係の構造という観点からも非常に深く考えさせられる一冊でした。

「極冷」と「過熱」―― 対極的な二人が示す「無知」の怖さ

本作で特に印象的なのは、主人公の森口先生と、後任のウェルテル(寺田先生)という対極的な二人の描写です。感情を極限まで押し殺し、淡々と現実を見つめる森口先生の「冷酷な静寂」。対して、「自分は熱血教師である」という自身の物語に酔いしれるウェルテルの「盲目的な熱血」。

作中でのウェルテルを見ていると、「無知というのも罪だな」と感じながら読み進めてしまいます。しかし物語を追っていくと、彼は単なる天然の能天気や鈍感さだったわけではないことが分かります。「理想の熱血教師像」という強い自己承認欲求にとらわれるあまり、目の前にある不都合な現実や生徒たちの発するSOSを、自ら見えないふりをしてしまっていた。自分の思い描く「理想の自分」に没入し、他者の本当の姿を見ようとしなかった自我のエゴが生み出した「無知」だったんじゃないか、と思うのです。

善意や熱意であっても、他者への歪んだ自己満足や無知と結びついたとき、周囲に大きな影響を与えてしまう怖さを突きつけられます。

誰もが囚われている「独りよがりな自己承認」

作品を通して感じたのは、登場人物たちの「自己承認欲求の表現の仕方」や「行動への現れ方」の違いです。結局のところ、誰も彼もが「独りよがり」なのではないかという突きつけを感じずにはいられません。全員が「自分が正しく、自分が被害者である」という都合のいい物語に囚われていて、他者と本当の意味での対話や相互理解には、なかなか至れないでいます。

特に深く考えさせられるのが、登場人物たちの未熟さです。相手を一人の人間として尊重せず、まるで自分の従属物や存在価値の証明者のように捉えてしまう歪み。周囲を無条件に見下してしまう感性には、思春期特有の幼さと同時に、他者への共感性が欠落している怖さを感じます。知識や能力が高くても、相手の痛みに思いを馳せる視点が抜け落ちてしまうと、人間関係は決定的に破綻してしまうのだと実感させられます。

緻密に組み上げられた復讐劇と構造の美しさ

人間性の泥臭いエゴが渦巻く作品でありながら、読み終えたあとの物語としての満足感は非常に高いものがあります。物語の伏線が完璧に回収されていくミステリとしての快感はもちろんですが、何より冒頭の教壇での独白に始まり、ラストの静かな切り札へと回帰していく円環構造の見事さに惹きつけられます。

直接的な暴力ではなく、人間の心の隙間や歪んだ承認欲求という脆さを巧みに突いていく展開。最初から最後まで全体の流れが完璧に計算されていて、緻密に組み上げられたサスペンスとしての完成度の高さに、思わずうなってしまいました。

おわりに ―― 承認の飢餓と他者理解の難しさ

『告白』は衝撃的なストーリーでありながら、「人はどこまでいっても自分の見たい世界しか見られないのではないか」という人間の孤独と自意識の歪みを鋭く描いた作品でした。

自分自身の価値を他者からの承認にのみ求めてしまうとき、人は時に自分だけでなく周囲との関係性をも壊してしまうのかもしれません。相手をありのままに捉え、一人の人間として対話し理解することの難しさを、フィクションという形で重く問いかけられた気がします。

こういう「自分の見たい世界しか見えない」瞬間は、フィクションの中だけでなく、1on1の現場でもふと顔を出します。相手を分かったつもりになっていないか。そんな問いを、この本から持ち帰りました。

思い出のゲーム、と言われても

今週のお題「思い出のゲーム」

 

今週のお題は「思い出のゲーム」だそうです。

正直、言われてもパッと浮かびませんでした。 ドラクエの復活の呪文をメモし間違えて冒険の書を消した話とか、そのあたりは同世代の方なら誰でも書けそうな「あるある」な気がして、あえて避けようと思います。 代わりに、もう少し個人的な記憶をたどってみることにしました。

初めてテレビゲームというものに出会ったのは、中学生の頃だったと思います。 友達がコカ・コーラの懸賞で、モノクロ画面のスカッシュゲームを当てました。 光る点が画面の中をピコンピコン跳ね返るだけの、今思えばかなり単純なものです。 遊びに行かせてもらって、実際に見せてもらったんですが、正直「地味だな」と思いましたし、大して面白さも感じませんでした。

その次に電子ゲームと呼べるものに接点を持ったのは、任天堂のゲームウォッチでした。 オクトパスという、タコが宝箱を取りに来るのを腕を伸ばして防ぐゲームです。 あれは、欲しかったです。 でも、うちはそれほど裕福な家庭ではなかったので、買ってもらえませんでした。 モノクロスカッシュには何も感じなかったのに、ゲームウォッチには本気で憧れる。 自分でも、何にスイッチが入るかよく分からないものだな、と思います。

結局、一番ハマったのはチャックンポップでした。 会社に入ったばかりの頃、友達と二人プレイで、50円玉を積み上げて、コンティニューコンティニューで、エンディング画面まで行ったのを覚えています。

ゲームセンターの中でも100円ではなく50円で少し割安に抑えている台だったんですが、それでも結構な額を注ぎ込みました。 ゲーム自体が面白かったのはもちろん、キャラクターがかわいかったのもありますし、何よりそれに黙って付き合ってくれる友人がいたのが大きかったんだと思います。 子供の頃は欲しくても手が届かなかったものに、自分の稼いだお金で本気を出せるようになった。 あのときの達成感は、正直、仕事でもなかなか味わえなかったかもしれません(笑)。

「道に聴きて塗に説く」の罠 | なぜ上司の「正しい1on1」は部下に響かないのか

 最近のブラウザはとても便利で、アプリを一度閉じても、前に開いていたページを記録していて、次に立ち上げたときにもそのまま表示してくれますよね。
わたしは、それでなんとなく論語のページを開いたままにしていました。

先日、「今日、一つだけでも古典の言葉を真剣に受け止めてみよう」と思い立ち、ふと目についたのが、次の言葉でした。

「道(みち)に聴きて塗(みち)に説くは、徳これ棄(す)つるなり」

道端で聞きかじった良い話を、自分の中で十分に咀嚼することなく、すぐにまた別の道端で他人に受け売りしてしまうことは、自らの徳を捨てるようなものだ、という意味です。
この紀元前から伝わるシンプルな警告は、大人になってからの「学び」や、職場のコミュニケーションのあり方に対して、とても深く、静かに語りかけているように感じます。

受け売りを排し、知識を「血肉」にするということ

 わたしは、たとえ資格試験に落ちてしまったとしても、その勉強の過程で身についた学習習慣や知識は誰にも奪われない、自分の血肉になっていくものだと思っています。
 だからこそ、この論語の言葉は、単なる「知識の受け売り」を排し、学びを自分の一部にしようとする強い意志そのものであるように思えてならないのです。

 たとえば、資格勉強の際、テキストをただ上からなぞるだけの丸暗記は、まだ「道に聴いた」だけの段階なのかもしれません。
 わたしは学習の際、生成AIをパートナー(相棒)にして、「ということは、こういうこと?」「この理解で合ってる?」と、自分が納得いくまで徹底的に壁打ちを繰り返しながら、まるで自分専用の参考書を作るように理解を深めていきました。まぁ、それはエピソード記憶への変換で、覚えやすくするためですけど💦

 徹底的に疑問と向き合い、自分がこれまで現場で経験してきたことと、新しい知識を照らし合わせながら、じっくりと自分の中で消化していく
 この泥臭いプロセスを経て初めて、知識は「塗(道端)に説く」レベルから引き上げられ、「誰かを救うための智慧(徳)」へと昇華していくのではないでしょうか。

 おとなになってからの勉強は、誰かにやらされているわけではなく、自分自身の「やりたい」という主体性に基づいているからこそ、純粋に楽しいのだと思います。
 主体性を持って楽しく深く取り組む学びは、決して薄っぺらな聞きかじりの知識にはならないはずです。

1on1の現場に潜む「受け売りの正論」

 しかし、この論語の警告が、最も顕著に、そして悲劇的な形で表れてしまう場所があります。
 それが、「職場の1on1や部下育成の現場」です。

昨今、多くの企業で1on1や定期的な面談が導入されるようになりました。
 その中で、管理職研修やビジネス書などで「傾聴」や「コーチング」のテクニックを学んだばかりの上司が、自分の中で十分に消化できていない「教科書通りの正論」を、そのまま部下にぶつけてしまう場面によく遭遇します。
 これこそが、まさに学びをそのまま流す「塗に説く」状態ではないでしょうか。

「傾聴が大事だから」と、ただ形だけ「聞く(=耳で受け流す)」だけであったり、マニュアル通りの質問を繰り返したりする1on1は、かえって現場を疲れさせてしまいます。
 部下は、その言葉の奥にある「借り物の綺麗事」や「上司自身の価値観の押し付け」を、驚くほど敏感に察知するからです。
 「この人には本音を言っても無駄だ」とメンバーが心を閉ざしてしまう会話の違和感は、こうした「受け売りの対話」から生まれているのかもしれません。

技術の奥にある「相手を想う姿勢」

 どれほど洗練された質問技法や傾聴のスキルを学んでも、そこに「目の前の相手を想う姿勢」という土台がなければ、すべては見透かされてしまいます。
 一人の人間としての温かい関心や尊重がない1on1は、部下にとっては単なる業務報告よりも退屈で、警戒を要する時間になってしまいます。

 まずは「相手の境界線を侵害しない(ブレーキ)」という信頼関係の土台を築き、その上で、相手が本当に求めているときにそっと言葉を差し出すこと。
 「されたくないこと」をしない、という相手を思いやる想像力(論語でいう『恕(じょ)』の心)があって初めて、私たちは聞きかじったテクニックに頼らない、生きた対話ができるのだと思います。

「発酵」させる時間を大切に

 効率性やスピード(タイパ)が求められる現代だからこそ、本を読んだり知識を仕入れたりすることはとても素晴らしいことです。
 しかし、仕入れた知識をそのまま右から左へと流す前に、自分というフィルターを通してじっくりと「発酵」させる時間を、大切にしたいものですね。
そもそも本を読んでない人多いけど。

 「道で聴いたこと」をそのまま隣人に説く前に、一呼吸置いて、自分自身の原点(ORIGIN)やこれまでの経験と照らし合わせてみる。
 そんな、借り物ではない「自分の言葉」で行う丁寧な対話を、これからも職場や相談室で重ねていきたいと思っています。


ZERO ORIGINについて

ZERO ORIGINは、「自分らしく働く人を増やす」ことを目指し、キャリア支援と組織支援を行っています。
技術職としての現場経験と心理学の知見を活かし、キャリア、メンタルヘルス、組織づくりをテーマに、一人ひとりの声に耳を傾ける伴走型の支援を実践しています。
キャリアの悩みも、職場の課題も、個人だけの問題ではなく、人と組織との関係性の中で生まれることが少なくありません。
本ブログでは、人と組織がより良い関係を築くためのヒントを発信しています。
キャリア相談、組織運営、人材育成に関するご相談は、お気軽にお問い合わせください。
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今週の音楽(20260912)

今週はこんな感じでした。

The Whoのロックオペラ、Tommy(1969年)を聴いたんですよね。それに加えてMy Generation(1965年)。

やっぱり、The Whoはいいですわ。。。実際映画は、大人になってから見ましたけど、小学生の頃NHKで観た・聴いたライブでの「See Mee,Feel Me」は鳥肌物だったわけで、「Pinball Wizard」はロック史上最高の曲ではないかと思ってたりもします。もちろん異論は認めます(笑)。

他にも、It's a Boy、Acid Queen、Tommy, Can You Hear Me? など、単独の教区としても名曲揃いなわけです。

映画としては、三重苦の少年トミーを主人公にした架空の物語ですが、このトミーがピンボールで異常な才能を見せ、スターになっていく、ってな感じでしょうか。トミーの内面や苦悩を想像させる非常にスピリチュアルな作品です。映画ではロジャー・ダルトリーが演じています。

そういえば、The Rolling Stonesのミック・ジャガーが、ケンカ別れしてバンドを抜けて、ロジャー・ダルトリーがストーンズに入るなんて、噂が一時期あったのを思い出しました。聞いてみたかったですね。The Who & The Rolling Stones。

他のアーティストというと、Guns'n'RosesはUse Your IllusionのIの方でしたね。ギターの音やリフがかっこよくて、ついつい聞き入ってしまいます。

さてさて、今週はなに聴くんだろ、自分(笑)

Tommy -Remast-

Tommy -Remast-

  • アーティスト:Who
  • UNIVERSAL MUSIC GROUP
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Invincible

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【読了】一次元の挿し木|完璧な「システム」と揺らぐアイデンティティの模索

第23回『このミステリーがすごい!』大賞で文庫グランプリを受賞した、松下龍之介さんの『一次元の挿し木』を読了しました。 【注意】 少しネタバレが入っています。

数々の伏線が絡み合い、徐々に隠された事実が明らかになっていく疾走感あふれる展開は、上質なミステリとしての快感を与えてくれます。しかし、読み終えたあとに胸に深く残るのは、単なる謎解きの面白さ以上に「遺伝子やDNAという絶対的なシステムの中で、人間は自らの存在意義(アイデンティティ)をどう見出すのか」という、極めて切なく重厚なテーマでした。


緻密な伏線設計が、読み進めるほどサスペンスに変わっていく

物語の序盤から中盤にかけては、いくつもの不可思議な出来事や「謎」が丁寧に散りばめられ、点と点が少しずつ繋がっていくミステリとしての醍醐味に満ちています。冒頭から提示される「ちゃぽん」という印象的な音をはじめ、細部に配置された違和感が、物語の進行とともに鮮やかな映像となって脳裏に浮かび上がってくる演出は見事の一言です。

そして、物語の中盤過ぎで大きな謎が解き明かされて以降、作品の性質は一気にギアを上げ、緊迫感あふれる心理サスペンスへとシフトしていきます。

特に、主人公である七瀬悠を取り巻く現実感や認知が揺さぶられ、安全であるはずの場所や記憶の足場そのものが崩れ落ちていくかのような心理的な追い込み描写は、圧倒的な緊張感と没入感を生み出しています。謎が明かされたあとも失速するどころか、より一層ハラハラさせる展開で終盤まで一気に引き込まれました。


遺伝子という「設計図」に、人はどう抗うのか

タイトルにある「挿し木」という言葉や、作中の根底に置かれている「遺伝子・DNA・複製」というテーマ。これらは科学的なロジックとして機能しているだけでなく、人間存在の根幹を揺さぶる強烈なモチーフとなっています。

もし自分の命や存在が、何らかの意図やシステム、科学的な設計によって生み出されたものだとしたら、人は「自分が自分である根拠(アイデンティティ)」をどこに求めればよいのでしょうか。

作中で描かれる出来事は、人間を単なる生物学的なシステムや「手段」として回収しようとする力と、それでも「個」としての自我や感情を持った人間との激しい葛藤そのものです。自分が信じてきた記憶やルーツが揺らいだとき、人は自らの生の尊厳をどう守り、受け止めるのかという鋭い問いが全編を貫いています。


作られた前提の中で、「自分」を生きるということ

不条理な状況やシステム(遺伝子や他者の意思)に組み込まれたとき、人間はただ翻弄されるだけの存在なのか、あるいは自らの意志でその運命を引き受ける当事者になれるのか。

たとえ前提や記憶、環境がどうであれ、その瞬間ごとに誰かを思い、選択し、行動した感情そのものは偽りようのない本物です。本作は、冷徹で客観的な生命科学のシステムを提示しながらも、その裏で揺らぐ人間の泥臭い愛や主体性のあり方を鮮明に浮き彫りにしています。

さらに、ラストシーンでサラッと提示される不穏で冷ややかな「匂わせ」の表現も秀逸です。事件がひとまず収束したかのように見えても、物語の背景にある巨大なシステムや人間の執念は、まだ終わっていないのかもしれません。そんな「ニヤリ」とさせられる絶妙な余韻が、読後感をより一層深いものにしてくれます。


『一次元の挿し木』は、伏線回収の快感と手に汗握るサスペンスの緊張感、そして「人間存在の根拠」をめぐる深いテーマ性が見事に融合した傑作でした。

目に見えるシステムや与えられた前提をただ受け入れるのではなく、自分自身の存在意義をどう見出し、どう生きていくのか。

物語のスピード感に圧倒されつつも、読み終えたあとには静かで重厚な余韻が残る、素晴らしい読書体験となりました。

AIを使って何かできないかと言い始めたら危険信号

AIを使って何かできないかと言い始めたら危険信号。DXの失敗に学ぶ、本来のAXの進め方

とにかく「DX推進だ」と騒がれた時代が過ぎたと思ったら、今度は「これからはAXだ」という声があちこちから聞こえてきます。
正直なところ、現場で交わされる会話を聞いていると、どうにも強い既視感を覚えてしまうのです。

「とにかくAIを活用して、何かできないか?」

実際、私も客先で「DXしたいんだけど、何からやったらいいの?」と聞かれたり、最近では「とにかくAI活用しないといけないんだけど、なんかない?」と相談されたりすることが、正直なところ何度もあります。

この言葉が出てきた時点で、かつて多くの企業が落ちた穴に、また足を踏み入れかけているのかもしれません。


これまでの振り返り:DXはなぜ失速したのか

DXの失速は、技術そのものの問題ではありませんでした。
本来のDXとは、デジタル技術を活用して事業のあり方や組織文化、働き方そのものを変革する取り組みだったはずです。しかし実際には、多くの企業で「変革」よりも「導入そのもの」が目的になってしまいました。

振り返ってみると、DXが失速した背景にはいくつかの共通パターンがあるように思います。

トランスフォーメーションが起きないままツール導入で止まった

多くの組織では、紙の書類をPDF化したり、クラウドサービスやワークフローシステムを導入したりと、「デジタル化」自体はそれなりに進みました。

しかし、本当に難しいのはその先です。業務プロセスを見直すこと、意思決定の仕組みを変えること、組織文化そのものを変革すること――そこまで踏み込めなかった結果、

ツールは増えたのに仕事は楽にならない

という不満だけが現場に残ってしまいました。

手段が目的にすり替わった

本来の目的は、顧客価値を向上させること、現場負担を軽減すること、生産性を高めること――そのはずでした。

しかし次第に、DXプロジェクトを立ち上げることKPIを達成することDX推進の実績を作ること自体が目的になっていきました。

経営層の資料では成功しているように見えても、現場からすると、

本当に困っていることは何も解決していない

という状況が生まれてしまったのです。

2025年の崖は「静かに進行する問題」だった

2025年の崖という言葉は大きく取り上げられました。
しかし実際には、ある日突然社会全体が崩壊するような話ではありませんでした。

現場で起きていたのは、大型コンピューターの維持費だけで予算が消えたり、技術継承ができずに退職したOBを呼び戻したりする、といった問題です。私の会社でも、退職後に弁当屋を始めた方が2年ほどして呼び戻され、70歳を過ぎても働いていた、なんてこともありました。せっかくメールでデータが届いているのに、それをわざわざ印刷して見ながら手入力している、という話を聞いたこともあります。

つまり、「変革を先送りした代償」が少しずつ積み上がっていたのだと思います。

問題を先送りした企業と、早めに手を打った企業。その差は今や隠しようもありません。

バズワードだけが看板を変えて循環する

振り返ると、IT化、DX、AI活用、AXと、新しい言葉が次々と登場しています。

そういえば昔、当時の森喜朗首相が「IT革命」を「イット革命」と口にして失笑を買った、という話が語り草になっていますね(実際は国会ではなく、省庁幹部との打ち合わせでの発言だったと週刊誌が報じたのが発端のようですが)。あれから四半世紀近く経った今も、「新しい言葉が現場に馴染みきらないまま先を急ぐ」という構図は、あまり変わっていないのかもしれません。

もちろん技術そのものには価値があります。しかし、組織の風通し、現場の声を拾う仕組み、変化への不安への配慮、迅速な意思決定――こうした本質的な課題に向き合わなければ、看板が変わるたびに同じ議論を繰り返すことになってしまいます。

DXが残した教訓

DXから学べる教訓はシンプルです。

問題だったのは技術ではなく、「技術を使って組織をどう変えるか」という視点の不足でした。

そして、その教訓は今始まろうとしているAXにも、そのまま当てはまるように思えます。


そして今、AXの現場で起きている「あるある」

DXが失速した原因が技術ではなく組織や運用の問題だったとすれば、AXでも同じ失敗が起きる可能性があります。

実際、現場ではすでに似たような光景を目にします。

有料アカウントを全社に配ったけれど、丁寧な挨拶文の作成にしか使われていない

経営層の「我が社もAIを導入する」という号令でツールを契約したものの、具体的な活用目的が共有されないまま運用が始まる。

結果として、メールの文章を整える程度で終わってしまいます。

社内問い合わせ用AIを導入したのに、元のマニュアルが古すぎて誤回答を連発する

業務効率化を目的に導入したものの、土台となるマニュアルやデータが整備されていません。

結果として、

AIに聞くより担当者に電話した方が早い

という本末転倒な状態になります。

「AIを使って新しいビジネスを考えろ」と現場へ丸投げされる

「切れ味の良い刃物を買ってきたから、何か切るものを探そう」

そんな道具先行の発想で、現場に丸投げされるケースも少なくありません。

しかし本来は、解決したい課題があり、実現したい価値があり、その手段としてAIを使う――という順番であるべきだと思います。


DXとAXに共通する根本課題

DXもAXも、本当に向き合うべき対象はシステムやツールそのものではありません。

むしろ重要なのは、人と組織の関係性です。現場の声が経営へ届くのか、部門間で協力できるのか、変化への不安が放置されていないか、意思決定が迅速に行われるのか――こうした土台が整っていない組織では、どれほど優れた技術を導入しても本当の意味での変革は起こりません。

「いつまでDXと言っているんだろう」

そんな現場の声の背景には、

本当に変えるべきなのはシステムではなく組織そのものなのではないか

という実感があるように思います。

AIの時代だからこそ、技術論だけではなく、人間側の課題に目を向ける必要があるのではないでしょうか。


今後AXを進めるうえで検討すべき4つの提言

提言1:目的と道具の主客転倒を絶対に起こさない

AIを使うことはゴールではありません。

出発点は常に、

誰のどんな悩みを解決したいのか

という課題の特定です。

現場の課題が曖昧なまま最新ツールを導入しても、誰も使わない仕組みが増えるだけです。

提言2:足元の古い仕組みや運用の整理を先送りしない

どれほど優秀なAIであっても、土台となる業務手順やデータ管理が乱れていては十分な成果を出せません。

過去の負債から目を背けたまま新しい技術を重ねても、身動きが取れなくなるだけです。まずは業務の整理整頓から始める必要があります。

提言3:単なる作業効率化ではなく仕事の進め方そのものを再構築する

AIを文章作成や調査の補助ツールとして使うだけでは、本当の変革とは言えません。

AIが存在することを前提として、業務フロー、判断基準、サービス提供のあり方――そのものを見直す発想が求められます。

提言4:巧遅より拙速で今すぐ小さな試行を始める

技術進化のスピードが激しい時代において、完璧な計画を待つこと自体がリスクになります。

100点の計画を作るより、60点の状態で小さく試し、走りながら改善する。

そのスピード感こそが成果を分けるのではないでしょうか。


最後に、少しだけ

新しい技術が登場するたびに飛びつき、目的を見失って消耗するサイクルは、そろそろ終わりにしたいものです。

「AIで何かできないか」と問いかける前に、「私たちは何を変えたいのか」を問い直すこと。そして、変えるべき対象をツールではなく組織や仕事のあり方として捉えること。

DXの時代に学ぶべき教訓があるとすれば、それは技術が変革を起こすのではなく、変革しようとする人と組織が技術を活かすということです。

AXが本当の意味での変革になるかどうかは、その原点を忘れないかどうかにかかっているのではないでしょうか。

看板だけ新しくして、同じ轍を踏まないように――そう自分にも言い聞かせながら、この記事を書いています。


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キャリアの悩みも、職場の課題も、個人だけの問題ではなく、人と組織との関係性の中で生まれることが少なくありません。
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【観了】『セルフレス』を観て、人生2回目について考えた

映画『セルフレス/覚醒した記憶』を観ました。今や売れっ子のライアン・レイノルズ主演です。

一般的には「自分とは何か」というアイデンティティを扱ったSFとして語られることが多い作品だと思います。ですが私には、それ以上に「生きるとは何か」「死ぬとは何か」という問いを投げかける映画に見えました。

主人公ダミアンは死を目前にして、初めて娘との関係を後悔します。富も成功も手に入れていたのに、人生の終わりが近づいたとき、彼の心を占めたのは会社でも資産でもなく、取り戻せなかった人間関係でした。人は死を意識したときに初めて人生を振り返るものなのかもしれません。そういう意味では、この映画は単なる若返りSFではなく、「死があるから人はどう生きるのか」を描いた物語なのだと思います。


「今の記憶のまま」若返って、別ルートの人生を覗いてみたい

私はこの映画を観ながら、いろんなことを夢想しました。もし本当に記憶をそのまま別の身体へ移植できたらどうなるのだろう、と。文系脳の私には技術的に荒唐無稽に感じますが、想像するだけなら自由です。

「今まで出会った人に会えなくなる」ということもあるかも知れませんが、私はあまり気にしていません。もちろん今まで出会った人たちは大切です。しかし別の人生を歩めば、別の人に出会います。そこにはまた違う友情があり、違う恋愛があり、違う世界が広がっているはずです。失うものだけではなく、新たに得るものもあります。

運命だからきっと同じことになる、という考えもありますが、私は人生をやり直したいというより、別ルートの人生を見てみたいと思います。ゲームで言えばセーブデータを消したいわけではなく、別の選択肢を選んだ世界線をプレイしてみたい、という感覚に近いかもしれません。

そして、どうせ人生2回目をやるなら少し欲張りたくなります。今の記憶と経験と精神年齢はそのままで、高身長でイケメンだったらどうだろう、と。高校生の頃にはなかった余裕を持ち、失敗もそれほど恐れず、しかも見た目まで恵まれている。案外モテるのではないでしょうか。少なくとも、周囲の高校生たちはかなり子どもに見える気がします。もっとも、精神年齢60代近い人間が同級生と本気で恋愛できるのか、という別の問題は発生しそうですが。

進学先の選び方も変わるでしょうし、就職先の選び方も変わるでしょう。もしかすると会社員を選ばず起業するかもしれません。投資や勉強法についても、人生1回目よりずっと有利なスタートが切れるはずです。

よく「家は3回建てないと満足できない」と言われます。住んでみて初めて分かることがたくさんあるからです。だとすると人生も同じなのかもしれません。人生1回目では経験が足りず、人生2回目でもまだ足りないかも知れませんね。


『セルフレス』の後ろめたさと、『老人と宇宙』の解決策

そんなことを考えていると、『セルフレス』にはひとつ大きな問題があることに気づきます。映画の主人公は他人の身体を手に入れて生き続けます。つまり、自分が生きるために誰かの人生を壊しているのです。それがこの映画の不気味さであり、倫理的な後ろめたさでもあります。

もし将来、自分のDNAから若い身体を生成できるようになったらどうでしょう。ジョン・スコルジーの『老人と宇宙』では、そんな設定が登場します。他人の身体を奪うのではなく、自分由来の新しい身体を得るのです。そうなると問題は「他人を犠牲にしてよいのか」から、「それは本当に自分なのか」へ移っていきます。ただそのままでは、ブサメン、低身長なので、遺伝子組換えとか、色々いじってもらう必要がありますが(笑)


テセウスの船、そして答えの出ない面白さ

ここで思い出したのが、最近読み始めた漫画『テセウスの船』の元になった有名な哲学の問題です。船の部品を少しずつ交換していき、最後には元の部品がひとつも残らなくなったとします。それでもその船は元の船なのでしょうか。

人間も似ています。身体が完全に別物になっても、記憶がそのままなら自分なのか。逆に身体が同じでも記憶を失ったら自分なのか。考え始めると答えは出ません。ですが、この答えの出なさこそが面白いところだと思います。


問いかけとして残ったもの

『セルフレス』を観て考えたのは、不老不死の夢ではありませんでした。人生2回目への憧れでもありませんでした。たぶん私は、「別の可能性を試してみたい」という人間の好奇心について考えていたのだと思います。

違う大学へ進んだ世界。違う会社を選んだ世界。もっと早く起業した世界。あるいは高身長イケメンとして生きた世界。どれも今の人生ではありません。ですが、ちょっと覗いてみたい気はします。

もっとも、本当に人生2回目が実現したとしても、きっと人生3回目が欲しくなるのでしょう。人間とはそういう生き物なのかもしれません。

だから『セルフレス』は不老不死を描いた映画でありながら、結局は「人生をもう一度やれるとしたら、あなたは何を選ぶか」という問い、というか、実際にはやり直せないんだから、後悔のない人生を歩もうよ、という呼びかけに感じました。